MOMASコレクションの堀浩哉(1947-)の特集で紹介する絵画の一つが、《波光 13》(1994年)です。墨とアクリル絵具を用いて、横幅350cmを超える大画面に描かれています。画布に和紙を貼り、水平に走る黒い帯と、垂直に林立する赤・黒の線が交差するように描かれています。絵画は水平・垂直に構造化されていますが、線のゆらぎや粗密、和紙に浸透する絵具の違いや濃淡が、画面に微かにざわめくような印象をもたらしています。制作プロセスは内面化され、視覚的構造、物質的表情、身体の余韻が折り重なり、西洋の絵画にはない独自の絵画空間を孕む光景が屹立しています。
美術の制度を解体し、ゼロ地点へ
このような絵画を描くまでの堀の軌跡は、決して単線的ではありませんでした。堀が多摩美術大学に入学したのは1967年です。60年代は美術、演劇、映画等が交差し、前衛芸術や反芸術が注目されていました。「前衛」や「反」という概念は、従来の価値観の反措定として成立しうるもので、大局的にはそれに依存します。しかし60年代末において、依存する相手であった近代の価値観が揺らぎ、最早、前衛芸術や反芸術が意義を持ち得なくなった状況を、若き日の堀は鋭敏に感じ取っています。こうして近代の文化的構造の問題を見据えつつ、美術を巡る様々な制度を解体し、ゼロ地点に降り立ち、あるべき表現を模索し始めます。その過程では、絵画とは関係のないようにみえる活動も行っています。
例えば、1967年には自己と共に近代的な価値観を葬り去るイベント《自己埋葬儀式》を行い、首のない人形をぶら下げ、東京駅や銀座を練り歩きます。学生紛争の機運が1968年から高まると堀も闘争に加わり、学内にバリケードを設け造形作家同盟展を1969年6月に開催します。同年7月には学内組織を越えた美術家共闘会議(美共闘)を結成し、堀は議長を務める一方、「絵筆は折らない」ことを信条とし、1969年5月の第9回現代日本美術展に《鑑賞を拒否する》を出品します。絵画自体を批判し、枠と布という物体にまで解体されたこの作品は、それさえも美術として見ようとする私達の内なる制度も批判しているのです。
1970年には美共闘の課題を引き継ぎ、美術表現の在り方を問う運動体美共闘REVOLUTION委員会を彦坂尚嘉らと立ち上げます。同委員会のプロデュースのもと、美術館や画廊と異なる場所でイベントを行ったり、機関誌の『美術史評』や『記録帯』を発行したりしながら、今日で言うコレクティブのような活動を展開します。今回展示をする《REVOLUTION》(1971年)はその一端を示す貴重な作例で、渋谷の小劇場「HAIR」で開催された堀の個展の展示物の一部です。「壁」に纏わる単語を辞書で引き、その説明を分節して「REVOLUTION」という言葉を挿入した文を、同委員会のメンバーがカラフルなクレヨンで多数のシートに綴っています。
同委員会の活動に並行し、堀は1972年から《Act》、《調書》、《MEMORY-PRACTICE》と題する一連のイベントも行います。例えば、画廊の壁面に木枠を設けて布をかけ毎日移動し続けたり、レコーダーやビデオ等も活用し、文章、日常の音や映像などを分節、反復したりしています。事物と表現、現実と虚構が揺らぎ、文脈や意味が解体されていくような実験的な試みです。
また同時期に、絵画の要素に焦点をあてる制作も手掛けています。三原色(赤、青、黄)をベタ刷りのシルクスクリーンで刷り重ねるシリーズ〈THREE PRIMARY COLORS -PRACTICE〉や、顔料を付けた糸を張り画布にその糸を弾いて線を描画し、水平に線を集積させるシリーズ〈LINE-PRACTICE〉を試みています。色と線を主題とするこれらの実践からは、手で描くことを避け機械的でシステマティックな制作に委ねながらも、不可避的に現れる絵画表現の萌芽のようなものを読み取ることができます。
「絵画」の中心へ向かう
こういった活動の最中、1977年に堀は第10回パリ・ビエンナーレに招聘されます。新設されたパフォーマンス部門への参加となり、シリーズ〈LINE-PRACTICE〉を出品したほか、《MEMORY-PRACTICE》から派生した《DANCING-AFFAIR》と《READING-AFFAIR》を、同ビエンナーレやパリの画廊で上演し好評を得ます。ところが滞在中に触れたモネの最晩年の絵画を、自らの問題意識に引き寄せて考えたことがひとつの契機となり、この年を境にイベント(パフォーマンス)から離れ、帰国後は絵画制作に向き合うようになります(註1)。その時の心境を、堀は後にこう振り返っています。
「(前略)77年にパリのマルモッタン美術館で、モネ最晩年の連作絵画を見たときに、ある啓示を得たと感じた。一連の睡蓮の大作の後に、視力を失いながら描き続けたジヴェルニーの庭を描いた小さな未完の何点か。(中略)70年代初めの『絵画の死』とは、実は近代絵画のリニアな一方向が行き詰まりになっただけであることは、すでに明らかだと感じてはいたし、それとは別の道への根拠の一つがこのモネ最晩年の、つまりはモダンの最盛期の『綻び』の中にあると感じられたのだ。(中略)ただ、はっきりと覚えているのは、自分の三原色による絵画を『未生(生まれる前)の絵画』あるいは『実生(種子から発芽したばかり)の絵画』であると位置づけして、なにか霧が晴れるような気分になり、さぁ、これから『絵画』の中心へ向かおうと思えたということだった。」(註2)
絵画の中心へ向かうという言葉は、70年代のイベントや実践が、堀にとって絵画の圏外のものではなかったことを意味しています。それらを通して堀は絵画のできる限り周縁を手探りし、外部に晒されるその周縁で体得したものを、従来とは位相の異なる絵画へと接続しようとしたと言えるでしょう。
堀は70年代初頭から自らの活動を「境界線上に立つ」という言葉で語っています。煩わしい外部世界から離れ内部に安住するのでもなく、内部の規範から逃れ自由を求めて外部に向かうのでもなく、批評精神を駆動し続けるには、常に境界線上に留まる必要があることを説いています。絵画の内的な規範とその外部にある世界が拮抗する境界線上に、あえて精神を据えることから生成される絵画表現。それこそが、堀が目指そうとしている絵画ではないでしょうか。